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​夢想の旅人


(0:0:1)上演時間5〜10分


気が付くと街は、宵の淵へと歩み出していた。
薄暗くなった部屋の中、顔を上げると、透けたカーテンに茜色が差している。
薄氷の様に冷たい床を目醒しに、窓辺に赴く。
レースの霧を払い、表れた夕映えに目を細めた。
ウイスキーの海に沈む、琥珀色の街。
窓越しに並ぶ建造物のシルエットは、影絵の付いたグラスの様だ。
吐息に曇る景色を指でなぞって、冷たい窓枠に手をかける。

昼と夜の隙間、黄昏に浮かぶベランダは静謐で。
凛と刺す空気に頬は強張るけれど、その冷たさを目一杯吸い込んだ。
肺の、微睡む熱を雪ぐ様に、要らない気持ちを吐き出す様に。
干し草を燻した様な冬の香りが胸を満たし、溢れては昇っていく。
綿菓子に似た薄い雲が散らばり、近く、遠く、色付きながら漂う。
菖蒲から山吹に移ろう空に、紺青の綿が流れていく。

 

何もないのに寂しくなってしまうのは、「何も無い」からなのか。
明暗の内在する人の心を、この景色が写してしまうからなのか。
それとも。
あの人が寄越した写真の、異国の夕焼けに似ているからなのか。

スリランカはウェリガマの、海釣り人のエアメール。
ゴールデンイエローの水平線に、インディゴの雲、溶ける様なブーゲンビリアの空。
逆光でシルエットになった男達が、浅瀬に立てた棒に座って釣りをしている。
「ストルトフィッシング、そっちでは竹馬漁とも呼ばれるらしい。」
「僕も座らせてもらったけど、いい眺めだよ。」
写真の裏のたった二行が、あの人らしくて笑ってしまう。

旅人よ。
ウェリガマの潮風に、揺らぐ貴方のその髪を。
そっと撫で付け、口付けを贈ろう。
旅人よ。
どうかその道行きに、幸多からんことを。


海の便りを眺めていると、あの日のさざ波が打ち寄せてくる。
春深し防波堤、柔らかな光の泡立ちと花びらの渦。
ひねもすのたり、垂らした糸は風か波に揺れるだけ。
本当に釣る気でいたあの人の、垂れ下がった眉が愛しくて。
私はまんまと、釣り上げられてしまった。

仕舞うために開けた文机の、引き出しから覗くもう一つの海。

 

トルコはイスタンブール、青き祈りのエアメール。
白亜の壁と六つの塔、光を和らげるアイアンブルーのドーム。
マルマラ海に抱かれた、ブルーモスクと呼ばれる礼拝堂。
モスクを染め上げるバーミリオンの夕陽と、マルマラ海のマリンブルーとのコントラスト。
「六つの塔は、4本建てるつもりが建築家の聞き間違いで6本になったらしい。」
「僕も良く聞き間違えて、君を怒らせていたっけ。」
綺麗な写真と裏面に書かれた軽口を、交互に眺めて頬杖を付く。

旅人よ。
モスクを照らす夕映えに、眩しく細めた横顔の。
目尻の皺に、触れて微笑もう。
旅人よ。
どうか貴方の空に、冷たい雨が降らないように。


今度こそ仕舞い込んだ想い出に、気付かれないよう小さく笑う。
夏浅き帰り路、涼やかな雨風、一本の傘。
洗い直しの洗濯物と、手羽元の甘酢煮と、ぶすくれる私。
『取り込んでおいて』と言ったのに、『鳥を煮込んだ』あの人の、困ったように笑う顔。
謝る仕草が可愛くて、わざと怒ったフリをした。

 

気が付くと街は、宵の淵に腰掛けていた。
長夜を泳ぐ部屋の中、文机の小さな明かりと、電光の置き時計が輪郭を教えてくれる。
そうして、物思いに耽りすぎたことも時計が教えてくれたので、机上の旅から立ち上がる。
明かりを落とした薄闇の、窓辺で揺蕩う月明かり。
煌々と照らす寒月が、カーテンの波間でぷかぷかと遊んでいる。
たなびく光のドレープに、また、ひとつ。

 

ノルウェーはヘニングスヴァール、極夜に灯るエアメール。
ダックブルーのフィヨルドと、ネイビーブルーの夜空の間、横たわるコバルトグリーンのオーロラ。
水面に映る人々の暮らしと、揺らめく小舟、街灯り。
「北極圏の冬は、昼間でも太陽が登らない極夜になるんだ。ここは夜明け前ぐらいの明るさにはなるけどね。」
「明けない夜では無いけれど、とてもとても長い夜が、ここにあったよ。」
「今度は君も一緒に、この長い夜を。」
一行多いメッセージを、指で辿って想いを馳せる。

旅人よ。
極夜に灯るオーロラを、見上げ指差すその腕の。
傍に寄り添い、熱を分けよう。
旅人よ。
どうかその長い夜に、凍える眠りが無いように。


二人で初めて旅をした、あの夜を今でも覚えている。
岬の近くの小さなホテル、柔らかな潮風、夜の波音。
海を見下ろす大きな窓から、真っ直ぐ差し込んだ光の波。
船乗り達を導くための、航路を示す灯台の標。
回転する光の道は、緩やかなリズムで踊り続けていた。

初めての景色に興奮した私は、まるで子供の様に。


眠るのがもったいないと、夜が明けなければいいのにと、旅の終わりを惜しんだ。
「それなら朝まで話をしよう」
「そしていつかまた、こんな夜を過ごそう」
そう言って抱き寄せ、優しく微笑むその顔も。
額にキスをして、頭を撫でる大きな手も。
あの幸福な可惜夜を。
きっといつまでも、忘れることは無いだろう。

旅人よ。
孤独を照らす有明に、貴方を想うこの詩と。
夢想を旅し、帰りを待とう。
旅人よ。

旅人よ。

 

旅人よ。


 

 

 

 

 


「ただいま」
おかえり。

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